大好きな友人、クラーク桂子さん
インターナショナルな料理や多文化に接することができたり、またバラエティに富んだ友人をもつことができるのは、メルティングポットといわれる人種のるつぼ、アメリカに住んでいる特権だろう。
私の友人の中で特異な存在の一人をご紹介しよう。三十年来の友人クラーク桂子さんだ。先日彼女の家の近くを通った時のこと、我が家までは遠い。
トイレに行きたかったし、お腹もすいていた。彼女に電話をして、トイレを借りたい旨を話した。
彼女は(ボーリング大会に行く以外は)たいてい家で洋裁の仕事をしていているので、在宅のことが多い。とくにその日はお孫さん達三人を預かっているからと、「どうぞどうぞ」と弾んだ声が携帯電話の向こうで聞こえた。
トイレから出てくると、午後一時過ぎということもあってか、彼女の方で「お腹すいてる?」と訊ねた。バナナを一本もらって、お茶をいただいているうちに彼女は見事なサンドイッチをたちまち作って出してくれた。
庭では小学生のお孫さん達三人が遊んでいた。黒目勝ちの大きな瞳の美男美女のお孫さん達だ。お孫さん達には多種の血が混じっている。
ときどき、喧嘩するお孫さん二人をビシッと叱っている桂子さんの姿は幸せそのもの。かつて小さい頃、肌の色の違いから、さんざんいじめられた過去をもつなどとは想像もつかない。
桂子さんは黒人の父と日本人の母を持って生まれた。戦争の落とし子である。もちろん父も知らない。生みの母のことも長い間知らずに、子供のいない佐世保の家庭にもらわれて育った。
日本人桂子
最近とくに日本でのいじめによる自殺が多くなっているからか、彼女が結婚直後二十歳の時に書いた本(『日本人桂子』ほるぷ社)を読み直したが、前読んだときよりもインパクトが強かった。
「『やい、くろんぼ、汚い、寄るな、こっちへ来たらいかん』『お前なんか、誰が遊んでやるか』『おい桂子、そこで尻まくって小便たれてみろ、きっと黒か小便の出よるぞ、ハハハ』『土人』そんなふうに言われているうちはまだいいです。
こん畜生と思ってみんなを睨み返していると『こいつ、憎らし、まだ泣きよらん、おい竿竹持って来い。打っ叩いてくれる』そう言って、竹で叩くんです。それから、髪の毛をひっぱったり、石を投げたり」
待ちに待った小学校入学。そこでも平穏な日は初めだけだった。
「あの近所に住んでいたガキ大将が、同じ一年生として、他の組にいたからです。廊下で会うと、『くろんぼ』といって頭をぶち、校庭で遊んでいると、後ろから走ってきて、ドシンとぶつかり、私を倒したりする。
でもだんだん私も、泣かない子になっていました。いじめられても、前みたいに、うじうじと泣いてばかりいないようになった。
そのうち、相手が男でも女でも、私に変なことを言ったり、いじめようとした相手には、なにくそっと、かかっていった。上級生でも、向かっていきました。
二年一組に韓国の子が二人いました。その二人と私三人は、みんなから、仲間はずれにされがちでした。みんなは、けんかの強い私はよけて、韓国の子をよくいじめました。そういうところを見つけると、私はもう自分でもどうしようもないくらい、カッカッとなって、相手が三人だろうが、四人だろうが、とびかかっていった。
弱い者いじめをするやつを見ると、そいつを半殺しにしてやりたくなる。相手の腕にかぶりついて離さないんです。私の歯は虫歯一本もない丈夫な歯でした。かぶりついて、それからもっと強くガリガリとあごを締める、すると、肉に食い込んで、血がだらだら流れる。
泣いたって許してやらない。『いじめらるれって、どんなにつらい嫌なことか、お前達にはわからないにだろう』という気持ちがあって、ある程度で許してやるということはできなかった。」
彼女が強く出たこと、また、五年生のとき、父親のような何でも相談にのってくれる担任の先生に恵まれたことが救いだったろう。
森繁久彌氏との出会い
その桂子さんは、十九歳のとき、森繁久彌氏のやっていたラジオ放送に投稿した。
「私は戦争の落とし子といわれる混血児です。私の父は黒人です。でも私は父を知りません。・・・なにも悪いことはしてきていないのに、白い目で、見られ、今なお人の前で堂々と歩くことができず、顔を隠して歩く。 こんなみじめなことはありません。当たり前に思ってくださればいいんです。当たり前だけど本当の友情がほしいんです」
この投稿は森繁久彌氏によって読まれ、「きっと、あなたと同じ若い人達の大勢が、桂子さんの心を受けとめたと思います。どうか、びくびくなんかしないで、堂々と歩いてください」と励まされ、その反響は日本全国に及んだ。
それは北カリフォルニアにも及び、それがきっかけでクラークさんという黒人のかつて日本で宣教師をしていた青年との文通が始まり、やがて二人は結婚した。また桂子さんは森繁久彌さんの養女としてむかえられた。今は子供さん三人と、若いのにお孫さんも三人いる。
黒い雲の上にはいつも太陽が
まず日本の、あのじめじめしたいじめの土壌をなんとか壊してほしい。
そして、いじめられている子供達よ、桂子さんのように勇気をもって強く自分の人生を切り開いてほしい。
簡単に自殺しないでほしい。せっかく神さまからいただいた一度だけの人生なのだから。黒い雲の上には太陽が輝いている(日野原重明氏の言葉)ことを忘れないで。
竹下弘美
弘美さん、圭子さんのストーリーありがとう。僕の母は父の再三の暴力のため僕の妹を連れ石川県の能登半島の先端にある実家へ逃げ帰りました。ぼくが小学校2年の時です。(母はその前に一度、二人の子供を連れて逃げたのですが実家の長である兄に説得され土下座して謝る父の元に戻されたのです)。それからがぼくの少年時代の大変な生活が始まりました。 父は荒れ狂い生活は乱れ6年間の間に3人の継母と生活することになり、"お前の本当のかあちゃんはどこいた?"に始まりいじめられる度に喧嘩になり、相手をやっつけても、帰りは一人になってから大声でなきながら"お母さん、なんでぼくだけおいていったの?”と恨んだものでした。そのころ、宮城まり子さんの"ガード下の靴みがき"がよく流れ,風の寒さや、ひもじさにゃ、慣れているから泣かないが、あーあー夢のないのが辛いのさ”を聴きながら、涙したものです。奇しくも小学校6年生の卒業学芸会に野口英夫(清作)の少年時代、清作に抜擢され、囲炉裏に過って左手を突っ込み大火傷した頃、いつも悪ガキにいじめられながらも、貧しい家の家計を助けるため、歯を食いしばって、磐梯山の麓にある、猪苗代湖でドジョウを取り"ドジョウいらんかねー"と売り歩く役目で、ぼくにぴったりのはまり役だと思ったものでした。そのころからでしょうか、人の痛みがよくわかるようになったような気がします。圭子さんのお話を読んでイジメに敢然と立ち向かった姿におもわず拍手を送りたいと思いました。
そんな幼少時代をすごされたことは全然感じさせない呉服さん。
感銘しました。
桂子さんは子供時代から凄惨ないじめに遭われたのですね。
読んだだけでも凄い虐めと思うのに、実際はもっともっと、想像できないくらいの体験だったでしょう。
でも、良い結婚相手に恵まれ、今はお孫さんもいらっしゃる由、
本当に「雲の上には太陽が輝いている」でしたね。
お写真の桂子さんとお孫さんのお顔、本当にお幸せそう。
ガリ子
ガリ子さま
今の桂子さんは素敵な方ですよ。今度いらしたら、ご紹介しますね。神さまはけっして無駄なことはなさらない。あの過去があったから、今の桂子さんがあるのです。