蝉時雨

今年の日本はまだ暑さが続いているというから、蝉が鳴いているだろうか。母が危篤というので急に訪日した夏の日を思い出す。いつも訪日するのは暑い夏を避けていたので、何年ぶりかの日本の夏だった。実家のある国立駅から石畳の歩道を家路に向かうと、蝉時雨だった。

母が危篤だというのに、蝉はそんな事には関係なく鳴き続けていた。その春、やはり、日本にいる親御さんを亡くした友人が「父の告別式の時、京都は桜が満開でした」とメールをくれたのを思い出す。その表現の中に悲しさが溢れていた。

母が危篤

日本で母の面倒を看ていた姉から、母が下痢をした事、それが治った段階で、具合が悪くなり、夜救急車で病院に連れて行って点滴をしてもらった後は、近所の係りつけの医者が毎日往診に来てくれているが、食べる物を何も受け付けなくなったと知らせて来た。

ついに来るものが来たのか、丈夫だった母だが、寄る年波には勝てなくなったのではないか。九十四年もの間働き続けた臓器が、使い切られたのだろうか、姉は私が訪日する前に次のように言って来た。

「私の一存で、入院させるのは辞めたいと思うの。こんな状態の時に病院で不必要な検査をされたり、見知らぬ人に顔をのぞかれたりして、チューブだらけにされて、そのストレスの方が大変だから、本人にも確認するけれど、それでいいかしら?」

私に異存はなかった。いったん、病院に入ると、ただ延命のための処置がなされて、平穏な死を迎える事は無理だろう。なにしろ、たった二人姉妹の私達だから、姉は私に一刻も早く来て欲しいと言った。

折しも夏休みであることとお盆にかかって飛行機代はとても高かった。三日目に購入すれば少し安い切符が手に入るというが、三日待って母の死に目に会えないようでは、後悔してもし切れないではないか。お金はこういう時の為に使うものだ。清水の舞台から飛び降りるつもりで、切符を手配し、着の身着のまま、翌日の飛行機に乗った。

母の容態

玄関から、母のベッドに直行した。母は少し私の事がわかったようだが、表情は硬い。姉に言われていたが、すっかり痩せて目は窪み、骨が浮き立って、つい三か月前に会った時の面影はない。そばに私が送ったファックスが立て掛けてあった。

「一生のお願い、水を飲んでね。次女」
「このファックスを見てから、一生懸命水を飲もうとしてくれるのよ。でもせいぜい十ミリリットルだけど」と姉。

一週間前までは自分でトイレに立っていた母だが、もう立ち上がる元気がないという事で、不本意ながらおむつになってしまったという。姉とおむつ替えをした。乳児のおむつ替えと違って大変だ。その上、母は両方の腿にボルトが入っているから、身体の向きを変えさせるのも気をつけなければならない。身体の下に敷いてあるタオルを姉と二人で片側ずつ持ち上げながら、訪問看護師さん伝授のやり方を私も姉から教えられた。

少しでも食べてもらおうと、葛生や水を口に持って行った。医療ベッドの頭の部分を上げ、食べやすくし、一匙ひとさじゆっくりと口に運んで行く。口を開いてくれる時もあるが、しばらく食べてから手でもう嫌という合図をする。水分を摂取してもらわなければならないから、氷を口に入れる。これは嫌がらずに頬張ってくれた。

二日目には痛々しい床擦れができて、たちまちそれが水膨れになった。自分で寝返りが打てない事と栄養不足からなるのだそうだ。そこで二時間ごとに違う向きに変え、身体の下にクッションを入れ、支えを作った。痩せた体なのに動かそうとするとかなり重い。

ERへ

翌日、点滴に来たお医者さまからは次の日から四日間お盆休みで休診するので、もし衰弱が激しい場合には病院のERに行くようにとの指示だった。そこに入浴サービスの人達が来ていて、あまりにも母が衰弱しているのを懸念して、報告がケアマネジャーに行き、すぐ訪問看護師さんが訪ねてくれた。彼女は、老人の脱水症状は命取りになるからと入院を勧めた。その前からも毎日のように、米国にいる姉の息子(母にとっては孫で医者)から、すぐ入院するようにとの電話がひっきりなしに来ていた。

私達は耳の聞こえない母に筆談で、

「このまま家にいる?それとも病院で治療してもらう?」

と書いた、母は家にいる方にうなづいた。看護師さんは

「それでは頑張って千㏄の水分を摂ってくださいよ、OK?」と書いた。

あんなに衰弱していたのに母は少し笑って指でO の字を作ってみせた。よほど、家にいたいのだろう。

それでは全力を尽くそう。姉夫婦と私はヨーグルトやカロリーの高い流動食を二時間ごとに母に与えた。けれど母の心意気はどこへやら、食べ物も水も飲み込めずに、口の脇から垂れて来てしまうようになり、義兄が絶えず測ってくれる体温も高いまま、見るからに悪くなってきた。千㏄はとても摂ってもらえない。これでは医者が休暇から帰って来るまでもたないだろう。

姉夫婦と私はその晩、救急車を呼ぶ事に決めた。母の意思とは反するが、一時的に治療のためだからと、母には白板に書いて納得してもらった。救急病院の先生の検査では脱水症状により、腎臓もかなり悪くなっていた。すぐ点滴が始まり、入院となった。老齢だから、覚悟しておくようにと言われた。二日間点滴が続けられ、母は眠り通しだったが、顔色も良くなって来ていた。もう安心。

私の帰米の日が迫ってきた。帰米する当日、病院に立ち寄り、「笑える?」と訊くと母は微笑んでくれたではないか。昔子供の頃、私が病気になると、母はいつも「笑える?」と訊いた。私が微笑むと母は安心したものだった。

忍ばせて来た喪服を使わずにすんだ。喪服の入ったスーツケースを曳きながら、石畳を国立の駅に向かう私の耳に、蝉時雨が今度は心地良く響いて来た。

竹下弘美

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