気持ちの一切れ―忍び寄る老いの日

落としてしまったケーキ

リタイヤ生活に入る前、日系企業で働いていた時のことだ。「ダイアナのためにケーキを食べるからランチルームに集まって」と、同僚が各キュービックをまわって催促に来た。「今すぐ」と言う。そういえばダイアナの最後の日は明日の金曜日。コンピュータでのお知らせに、二時半に彼女のリタイヤを祝って皆に集まるようにと書いてあったのを思い出した。

エレベーターで二階に下りた途端、目の前でケーキの一切れが転がって、カーペットが生クリームだらけになったのを目撃した。見ると、落し主はレセプショニストのジーン。私達の会社で最年長者だ。私達の会社では定年はなく、必要とする限り雇用し続けてくれる。彼女は七十五歳だということだ。

腰が曲がっている上に、片手に書類をかかえ、片手に紙皿をもっていたから、無理もないことだった。いっしょにエレベーターから降りた友人が、すぐさまランチルームからペーパータオルを持って来て、呆然と立っているジーンの前で甲斐甲斐しく拭き始めた。私も、つっ立っているジーンの胸にかけているバッジが生クリームだらけだから、それを拭きとってあげた。

たちまち、カーペットは元通りに。「アイアムソーリー」と謝り続けるジーンに「こんなことは、いつだって誰にだっておこるのよ」と友人は優しく慰めていた。ジーンは「捨ててくれる?」と落としたケーキを載せたお皿を私に渡した。「代わりに一切れもってきてあげようか?」というと、自分のドジに哀しいのか「いいのよ、いらないから」と自分の席に去っていった。

ランチルームの中は人でごったがえしていたので、ケーキをもらって、ご本人のダイアナに挨拶に行った。今後どうするか訊くと「毎日が私のもの」と、ニコッと笑ったら、そのきれいな顔が正直に彼女の六十代の年を表わして、皺だらけになった。かつてはブロンドの美女であったろうに。

アメリカのケーキにしては苺を使った生クリームが使ってあっておいしかったので、これを食べ損なったジーンが気の毒になり、ジーンの席に行って「本当にいらないの?」と訊くと、彼女は「年とった私は、ああいう物を食べない方が良いということなのよ」と少し自虐的。

落としたという事実よりも、自分が老いていくことへの哀しさを感じているのではないだろうか。その上、リタイヤするダイアナは、彼女より十歳も若い。彼女の心境は複雑だったに違いない。  

こんなこともあった。ある日、家路をたどる坂道を運転している時、荷物を持ったおばあちゃんを見た。かなりの坂で大変だから、車を止めて「送りましょう」と申し出た。彼女は喜んで私の申し出に応じた。彼女の家はすぐそばだったので、大した助けにはならなかったと思うのだが、車のドアを開けて、降りるのを助けた私を彼女は強くハグして「God bless you」と言ってくれた。かなり嬉しかったようだ。私自身もその喜んでくれたことが嬉しくて、その日一日良い気持ちだった。

一味違うホットドッグ

 
また先日、不動産税の支払いに行った。郵便で出すと、期日までに届かなかったり、紛失する心配があるので、これだけはいつもカウンティオフィスに払いに行く。幸い、家からも近い。雨の日だった。出口で杖を使って、ゆっくり歩いているおばあちゃんに遭った。追いついたので、彼女のためにドアを開けた。当然のことをしたのに「Thank you, you are very nice」と、とても喜んだ。

私の方が当然足が速く、窓口に早く辿り着いた。彼女も不動産税の支払いに来たらしく、私の次だった。トイレに寄ってから、外に出ようとすると、また、ドアの直前で彼女に遭った。ドアを開けてあげ、雨が激しくなったので、彼女に傘をかざした。

「いつもは杖を使わないけど、今日は雨だから滑ると困るので。それで杖を使うから、傘はさせなかったの。本当にありがとう。あなたはナイスね」
と彼女の車まで送る私に、何回も繰り返し、感謝の言葉を言ってくれた。
「不動産税を払ったからもう安心よね。くれぐれも転ばないように」と言って別れた。滑って骨を折ってから、自由がきかなくなった母のことが脳裏をかすめた。

かなりの年に見えたが、まだ、自分の家を持っているのだから大したものだ。彼女に喜ばれて、なんだか嬉しくなった。ちょうど、車の止めてある所まで行く途中で、雨の中、ホットドッグやさんが、大きな傘を開いて店を出しているのが目についた。誰も客がいなくて、雨に打たれていた。

外で一人の時に買い食いなどしないのに、嬉しさついでにホットドッグをオーダーした。ホットドッグやさんもとても喜んだ。かえって雨の時の方が、皆、遠くへ食べに出ないから、客が多いのだと、私に陽気に話してくれた。誰も客は見えなかったのに。

自動車の中で、ホットドッグをほおばりながら、この嬉しさはどこから来ているのだろう、と考えた。あのおばあちゃんを助けることができたことから来ていることがわかった。そうだ、ジーンにはそれをしてあげてないではないか。

よし、彼女の誕生日を探りだして、その日に私が苺のケーキを焼いていってあげようと決心。ほんの気持ちの一切れを。それまで彼女が働いていればの話だが。

そして、そのうちに、今度は私の方が、若い人達に助けてもらう側になって“Thank you, you are very nice」と感激して、助けてくれた相手を強くハグする日が来るようになるのだろう。
いやもうすぐだ。

月日の経つのは早い。

竹下弘美

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