アメリカでのスターティングポイント

船の模型

この写真の船の模型は目に見える物としては唯一、私達夫婦が子供に残すことのできる物です。我が家には他の方々のように、金目の物は何一つありませんが、この船の模型はなかなか持っている人がいないので、希少価値でしょう。

私達が亡くなってからも、これを見る人に、アメリカという国が私達夫婦をどのように迎えてくれたかを語るきっかけになると思うのです。

国籍の違い故に結婚を反対されて、それでも、自分の人生は自分で切り開くという意気込みで、夫は学生ビザ、私はその配偶者というビザでアメリカにやってきました。初め、バスボーイやウエイトレスをしながら、お金を貯めて、夫はコンピュータの専門学校に入りましたが、卒業時、大変な不況でした。

不況 (Oct 8, 1970)
More than 700 people came for 4 meter reader jobs of Southern Cal Gas Co. (West San Fernando Valley Office)

この記事にあるように、その時の不況は深刻なものでした。ガスのメーターを見る仕事4人の求人に700名以上の人が応募すると言うような技術のある人達が仕事にあぶれていたころでした。

夫は連日、南はサンデイエゴから北はサンフランシスコまで就職口を探して運転してまわりました。レジメ(履歴書)はどのくらい出したかわかりません。どうなるかと思っていた矢先、奇跡的に就職できました。すでに卒業してから、1年も経ち、18か月のトレイニングビザは6か月になっていました。そこで、トレイイニングビザが切れるので、会社がスポンサーになって永住権を申請しました。ところが、折からの不況で、アメリカ人の多くが失業していた状態ですから、夫の永住権申請は労働局から労働許可が下りなかったので、移民局から却下の手紙が来ました。

国外退去命令

移民局からの却下の手紙は、2週間以内に国外退去しなければいけないというものでした。夫は韓国籍で、すでに日本への永住権を喪失していましたから、私は日本へ。夫は日本に母親がいても日本には帰れず、韓国に帰るようにということでした。その当時の日本の法律では私が日本人でも夫をカバーする事はできないということでした。韓国には遠い親戚はいるものの、彼は韓国ではなにもできないでしょう。どうしていいかわからない状態でした。

出るのは溜息ばかり。でもだいたい夫と結婚した時、一回しかにない人生を波乱万丈に生きたいと思っていましたから夫は沈んでいましたが、楽観主義の私は、どうなるか、愉しみでさえありました。

ロサンゼルスの日本領事館に相談に行きました。領事の方が親切に教えてくれたのは当時、日本政府は共産国人、無国籍人、韓国人に対してとても厳しいというものでした。

カナダに移住できないかとロサンゼルスから、サンフランシスコにあるカナダ大使館に、車で7時間かけて、問い合わせに出向きました。そこでもカナダへの移住をするには、アメリカのビザが切れる3か月前に出願しなければならないので、無理だとの返事をもらいました。

八方塞がりでしたが、一応日本に帰るしかないと、身の回りの物をまとめて、船で猫も連れて、日本へ帰ることに決めました。といっても夫は日本からのビザをもらえるかどうかもわからない状態で、なんとか、日本に入国できないかと日本にいる夫の母と連絡をとりあっていたのです。

結局、ビザが降りなかったので、船に乗ることができず、ほんの少しの荷物だけが船出したのです。使った船会社がこのPacific Far East Line という船会社でした。その頃は、American President Line同等かそれ以上の船舶をもっていました。

退去の日は過ぎていました。そんな絶体絶命の時にアメリカにいた義姉がその年の夏、アメリカ市民権を取得するので、夫は弟として、永住権を申請することができるという朗報が来ました。私たちは、弁護士と共にロスの移民局に出廷し、永住権申請まで米国に滞在することを許可してもらったのです。

船会社の仕事に就く

私は、出航するまで仕事を続けさせてもらっていたので、そのまま続行しましたが、夫はビザの問題が出た際にすでに前の仕事はもう辞めていたので、また仕事探しです。

日本から帰ってきた船荷を引き取りにいった先の船会社で、手続きをしてくれた方が彼に同情し、ちょうど、その会社で求人をしているという情報をもらいました。夫はせっかくコンピュータの勉強をしたので、臨時の仕事という軽い気持ちで働き始めました。会社のロスの支店長も「いつでも面接に出かけていいよ」という寛大さでした。

ところが、Pacific Far East Line で働き始めると、夫は仕事に熱中して、コンピュータの仕事を探すことはどうでもよいことになり、7年過ぎました。私達の生活は安定してきていましたが、この船会社は買い取られ、経営陣がビジネスに詳しくなかったために、あっという間に駄目になりました。そして全部解雇されたのですが、夫は最後まで整理にあたっていたため、受付にあったこの船を50ドルでもらい受けることができたのです。

その後もいろいろなことがあり、またいろいろな仕事に就きましたが、初めにこの船会社で学んだ輸出入の事がその後の仕事に大いに役立ったのでした。

すでにダウンサイズした我が家にはこの船の模型は大きすぎて、今は娘のところに置いてあります。見る度にアメリカにいられるようになったいきさつの一部始終を思い起こさせてくれます。あの時を通り越したからこそ、今があるという事を。

竹下弘美


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“アメリカでのスターティングポイント” への2件の返信

  1. ご夫妻の初めの頃の物語が、あの船の模型に込められていたのですね。自分でコントロールできない人生を悩むのではなく、神様と共にサーフィンしてるような弘美さんの在り方が本当に羨ましいです^_^。

  2. なぎささま

    🏄‍♀️っていい表現ですね。ありがとうございました。

    そうですよね、すべて私達の人生は神様の御手の中ですものね。

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