渡る世間に鬼はなし

息子のアルバイト

       
息子が大学二年になった年の夏はちょうど不況で夏休み中のアルバイトがなかなか見つからなかった。授業料の高いNYU(ニューヨーク大学)ではもちろん、奨学金ももらっていたし、学期中は大学内で、仕事をもらっていたが、一番の稼ぎ時は夏休みなのに。

その夏やっとみつけた仕事は証券会社のグレイブヤードシフト(夜勤)で郵便物を出す仕事だった。株の投資家達へのステイトメントの発送だったらしい。いくら夜型の息子でも、夜中起きていて、昼間寝る仕事はつらかったようだ。

働いていた人達の時給はそのころ九ドルだった。かれらが発送しているステイトメントの株主達には何ミリオンという配当金が支払われていたという現実。

また働いていた仲間にはいろいろな人種の人がいて、中には昼は他のところで働いて、夜の十一時半からは、その仕事をしている人がいたり、世の中の底辺層と金持ち層とを、同時に見る良い機会だったようだ。大学内で生活していただけでは知ることができない世界を垣間見たのだろう。

私のアメリカでの仕事探し

息子の仕事探しは私がアメリカに来たたばかりの時のことをおもいおこさせた。まずサンディエゴに落ち着いて、一年目にはアダルトスクールに通い、そこから許可証を出してもらって、ウエイトレスをした。私の場合、学生の夫の配偶者としてのビザで、正式に働けるビザではなかったからだ。

一年アダルトスクールに通ったあと、夫がコンピュータ―の専門学校に入るため、ロスのイングルウッドに引っ越した。 授業料が高く、日本から持参したお金はなくなるばかりだったから、私が一日も早く働きださなければならなかった。引っ越したばかりで、ロスの地域のことはわからなかったが、仕事探しに毎日走った。

トーランスのトヨタ自動車の本社に行ってみた。ちょうど社長秘書を求めているということだったが、ビザのことをきかれて駄目になった。今でも190ストリートにあるトヨタの会社跡をみるとその情景が再現する。

日本食レストランの仕事

日本食レストランに行った。着物を着たおかみさんが出てきて、すぐ気にいってくれ、ビザのこともかまわないからとお仕着せの着物を手渡された。

「擦れていないところがいいわ。でもここは宴会が多いから、結婚指輪はとってくださいね」

と言われた。家に帰って夫と相談して、その仕事はやめようということになった。結婚指輪をしてはいけないことは合点がいかなかった。翌日、着物を返しにいったら、おかみさんはとても残念がっていた。あれはたしか、ガーディナだったと思う。

「誰にもわからないから働きな」

次にはクレンショーの住友銀行に飛び込んだ。次長の方がとても親切にしてくださり、なにしろ、移民局で労働許可を取ってくれば、雇ってくれるという。すぐ移民局に直行した。

どこの部署に行ったらよいかわからないので、そこにいた移民局の人に労働許可はどこの窓口に行ったらよいか、きいたところ、親切にその窓口に連れて行ってくれた。その間、夫が学生だというと、「それじゃ働かざるをえないじゃないか」ととても同情してくれた。

窓口では唯一働けるビザは永住ビザで、労働許可と言うものはないと言われた。窓口に連れて行ってくれた移民局のおじさんはその答えをきいて驚き、その窓口を離れてから、私にこっそり囁いた。

「Nobody knows, go ahead and work(誰にもわからないから、気にしないで働きな)」

良き時代だった。住友銀行に帰って、そのことを報告すると、銀行としては違法なことはできないからと、正式な手続きをするようにと、銀行で使っている移民弁護士事務所をすぐ紹介してくれた。

その足でビバリーヒルズにあるその弁護士事務所を訪ねた。出てきたのは、ごろつきのような人相の弁護士。私の話をきいて、日本で秘書の経験があったようにでっちあげて、永住権申請をするけれど、前金でまず、五百ドル払うようにと言われた。そしてビザ取得ができるかどうかは確約できないというではないか。

ギャングのような人達に五百ドル払うのは抵抗があった。そのころの五百ドルは大きかった。私の脳裏にあの移民局のおじさんの囁きが聞こえてきた。
「誰にもわからないから、働きな」

そこでダウンタウンの職業案内所を訪ねた。その日のうちに会計の仕事の求人があるから行ってみるようにとダウンタウンの古びたオフィスに行かされた。理知的な中年の白人の女性が出てきて、雇うけれど加算器を使ったことがあるか、と訊かれた。

私はそんな物は見たこともないと正直に答えると、その翌日職業安定所で加算器の訓練を受けてくれば明後日から雇ってくれると言われた。ビザのことは一言も尋ねられなかった。

住友銀行にはお断りし、スプリングストリートの乙仲業の経理部での仕事が始まった。日本語でも経理のことは何も知らなかった私だ。日本人の姿は一人もなく、ボスに言われても何をしたらよいのか、さっぱりわからなくて、何回も訊き返した。周りは中国人、白人、フィリピン人、ギリシャ人、黒人と様々で、だからこそ、私の英語でもやっていけた。

意地悪なドイツ人のおばさんも猫のことを話せばやさしくなること、孫のことをきけば相好をくずすおばあさん、というようにだんだん英語もわかるようになって、とても楽しい職場となった。その後、オフィスがワールドトレードセンターに移った後も、子供が生まれるまで九年間働いた。 

もちろん、その間に永住権も取得できた。子育ての後は、日系企業で働いた。そこにも意地悪な人がちゃんといたが、その人とどのように仲良くやるかも愉しかった。

思えば仕事を通していろいろな人達に出会った。そしてその人との出会いも、またどの経験も無駄なものはひとつもなかった。息子もきっとそんなことを感じていることだろう。

そして想い出の中の人は、意地悪な人でさえ、いつもやさしく微笑んでいるのは、不思議なことだ。

竹下弘美

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One Reply to “渡る世間に鬼はなし”

  1. 永住権が無いために職探しに相当苦労されたのですね。
    私も渡米して13年間永住権が無くて動きがとれませんでした。
    私の場合は働けない、よりも日本に帰られないというのが苦痛でした。働くのは、どうせ大した仕事は出来なかったのだから潜りで働いていました。イミグレーションさんごめんなさい。
       ガリ子

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